【記事】 「こういう被害あることを、知って欲しい」【被災地の声】/ NHK

2024.01.29

https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/feature/2023/11/17/35934.html

「ショックでした。身動き取れないで、まだ生きてる牛もいて……」

地震で倒壊した同業者の牛舎に駆けつけると、下敷きになった牛たちを前に、その時は何も手助けできませんでした。

そして、自身の牧場でも牛舎が損壊。断水も続いています。場所も人手もない中で、40頭あまりの乳牛を手放す決断をしました。

「こういった被害があることを知って欲しい」石川県珠洲市の畜産家の声です。

珠洲市唐笠町 避難後真っ先に牧場へ

珠洲市唐笠町で牧場を営む松田徹郎さん(35)は、地震が起きた時、市内の海に近い地域にいました。

妻と子ども3人は金沢市の自宅で暮らし、自身は牧場がある珠洲市に暮らしています。

元日の夕方、金沢から牧場に車で戻っているところでした。突然の大きな揺れ。真っ先に浮かんだのは牧場のこと、従業員と牛たちのことでした。

すぐに高台に避難し、周辺に津波が来ないことを確認したあと、車で20分ほど離れた牧場に向かいました。

車で行けるところまで行き、そこからは歩きました。

地震で牛舎1棟が

地震で牛舎1棟が

牧場に着くと、4棟ある牛舎のうち1棟が傾いてしまっているのがわかりました。

松田徹郎さん
「牛舎がもうすぐ崩れるんじゃないかと思って、慌てて牛を外に出しました。」

建物は被害を受けていましたが、従業員や牛は無事でした。

松田徹郎さん
「従業員や牛の命が無事でよかったです。牛は寒さに強いので、今は放牧しています。ただ、地震が怖かったのか出たがらない牛もいて心配です」

同地区のほかの牧場では

一方、同じ地区にある別の牧場主の牧場では、深刻な被害が出ていました。30頭の乳牛を飼育する牧場の牛舎が倒壊し、牛が下敷きになっていたのです。

牧場から市街地につながる道は土砂崩れで通れず、牧場主は孤立状態になっていました。数日後、自衛隊のヘリコプターで救助され、苦渋の思いで牧場を離れました。

牧場主の男性
「下敷きになってもまだ数頭生きていたので、救えないことがもどかしく、なんとか連れて行けないかとも考えましたが、こういう事態で、救助活動の邪魔をすることももちろんできないので……」

松田さんも歩いてその牧場を訪れましたが、その時は何も手助けできませんでした。

松田さん
「ショックでした。潰れて、下敷きになって身動き取れないで、まだ生きてる牛もいまして。自分ができることを考えましたけど、もう道が寸断されていて、何をすることもできなくて」

その後も道路の寸断が続いて牛の救出に向かうことができず、ほぼすべての牛が死んだとみられています。

停電と断水が続く中で牛たちは

一方、松田さんが住んでいた牧場近くの家も傾き、扉が閉まらなくなっていました。

松田さん
「牛がいるから避難することは考えなかった」

被災しながらも牛たちの世話を続けていくために、松田さんは牧場の事務所として使っていたコンテナに布団を入れ、そこで生活することにしました。

黒毛和牛と乳牛、あわせて100頭あまりがいる牧場では、停電の影響で乳牛の乳を搾る搾乳機が使えませんでした。

松田さん
「牛は搾乳できない状況が続くと、人間でいう乳腺炎の『乳房炎』という病気になってしまいます。この牧場でも3分の1の乳牛が乳房炎になって、発熱したりしていました。獣医から薬をもらって、3日後に発電機が入って、なんとか命を助けることができました」

牛が「のど渇いた」と

停電は1月18日に解消しましたが、その後も続いているのが断水です。

牛の飼育には大量の水が必要ですが、その水が確保できません。松田さんによると、乳をよく出す牛だと1日に100リットルの水を飲むこともあるといいます。

そこで、山からの湧き水をタンクにためるための設備を自分で作りました。しかし、冬で気温が低くなっているため、湧き水が出る量が少ない日が続いています。

松田さん
「牛が『のど渇いた』って、ずっと鳴いてます。うちの牛は何か訴えたい時に鳴くんです。水が足りなくて朝から鳴いてます。湧き水があんまりたまらなくて。あんまり水を飲めなくて困ってます」

搾乳した乳を殺菌処理するための機械の洗浄にも、多くの水が必要です。

松田さん
「今は水がないので、搾った牛乳は子牛にあげる分以外はすべて廃棄しています。搾っては捨て、搾っては捨てていて、何してるんだろうという気持ちになる」

苦渋の決断を

さらに、牧場で働いていた従業員たちも被災し、避難生活のため牧場を離れている人もいます。

場所も人手も足りないなか、今までの態勢で牛の飼育を継続するのは難しい。松田さんは、やむなく40頭あまりの乳牛すべてを手放す決断をしました。

松田さん
「30頭入る牛舎がダメになり、30頭減らさなくてはいけなくて。乳牛と黒毛和牛を飼育してるんですが、今はきれいな水を使えないので牛乳の出荷ができない状況で、乳牛の飼育では収入を得ることができませんので、乳牛を手放すことに、今そういった計画です。育ててきた牛を手放すのはやせないというか、怒りをぶつける先がないと言いますか…」

いったん牛を手放そうとしても、今は同じように被災して牛を手放すことを考える業者が多いため、引き渡す業者や運送業者がなかなか決まらない状況だということです。

松田さん
「今、手放そうとはしてるんですけども、その後を運ぶ業者さんですとか、そういったのも、順番待ちのような状態になってまして、まだ牛を出すことはできていません。新しいとこに行かせてあげたいという気持ちはないです。本当は、飼えるならうちで飼いたいんですけどね」

重い決断の日々の中で

重い決断を強いられる中で、松田さんがほっと笑顔になった瞬間がありました。

地震から2日後、牛舎の片づけや、牛の世話に追われていたとき、ふと気がつくと1頭の子牛が生まれていたのです。

「こんな中でも育ってくれてありがとう」。

松田さんはそう声を掛けながら、母牛の鼻をなでたということです。

もうひとつ、同じ地区で30頭の牛が下敷きになって牧場主が避難した牧場でも動きがありました。先日、松田さんが行政とも協力し、牧場に残っていた子牛を救助したのです。

松田さん
「行政の方が動いてくれまして、先日1頭だけ救出することはできました。大きな袋に入れて雪の上を滑らせて、引きずって。もちろん喜びはありましたが、救えなかった牛が圧倒的に多かったので、なんとも言えない思いでした」

救出された子牛は、避難した牧場主の男性が避難先で大切に育てているということです。

「牛のためになんとか頑張る」

「牛のためになんとか頑張る」

石川県津幡町出身の松田さんは、珠洲市の景観のすばらしさにひかれて8年前に珠洲で牧場を始めました。

なんとか事業を続けていくために、状況をを知ってもらい必要な支援を求めたいと訴えています。

松田さん
「必要なのはもうやっぱり水です。水道の補修を早急にお願いしたいです。本当に支援が必要な状態ですので、お願いしたいと思います。とにかく今は牛のこと、それで精いっぱいになってます。こんな状態ですけども、やっぱり事業を継続していきたいです。心は全く休まらないですが、この牛のためになんとか頑張んなきゃなって思ってます」

(能登半島地震取材班 永田哲子)

【追記】東日本大震災時の「被災エリアの酪農家」の問題

記事を拝読し、東日本大震災被災地の気仙沼市で、当時ボランティアで滞在していた酪農学園大学の学生が現地で行った被災エリアの酪農家への視察レポート(視察先の名前は非公表とします)を思い出し、ストレージから探し出しました。実施時期は、2012年7月18日で、発災後、1年4か月後の時期に発災直後の様子を語っていただいたものです。宮城県では、震災被害に加え放射線の問題もあり、酪農家への影響が長期化しました。

視察にご協力いただいたA牧場概要
 〇昭和40年に現在の牛舎ができる
 〇お父さん、お母さん、息子さん(経営主)の3人家族経営。
 〇経営主さんで3代目
 〇成牛(乳牛)32頭 和牛5頭…受精卵移植用母牛
 〇草地(放牧地、採草地)16ha
 〇敷料はのこくず
 〇ホルスタインの初産にはET(受精卵移植の和牛)を付ける

【震災直後】
震災直後から断水、停電になり搾乳ができない環境になった。
断水の影響
牛の飲水用の水は川からくみ取り。ミルカー(搾乳の機械)を使い終わったらお湯を使って洗浄して次の搾乳に備えなければならない。また搾乳時には乳房をきれいに濡れた布巾で清拭しなければならないので水が必要。

停電の影響
発電機もなかったので散布機のエンジンをアレンジしてミルカーの真空を作りバケット(牛乳缶に牛乳が入るように搾る。普通は搾った牛乳はミルカーから直接バルククーラーに入る)で搾乳をした。糞の除去は一輪車で行い牛舎と堆肥舎を往復した。(普段は自動で畜舎から堆肥舎まで糞が送られるようになっている)

普段は一日に2回搾乳をしているが震災直後しばらくは一日一回搾乳でしのいだ。与える餌も買えないし牛乳を搾っても捨てなければならないので、牛乳ができるだけ出ないような飼い方をした。牛乳を出荷できない=その間儲けはゼロ むしろ餌代のみがかさむので牛を何頭か減らした。

その結果の牛乳
乳房炎は出なかったものの、搾乳量は30kgから10kgに下がり、牛乳の色は白色から黄色みがかった色に変化し牛乳の表面には脂肪の膜と思われるものが厚く浮いていた。=30kgの乳量が10kgに下がっても単に量が減るのではなく量は減っても30kg成分はそのまま10kgに濃縮され入っていると思われる。(濃い牛乳になる)

同業者の動き
去年宮城県で被ばくした牛肉が流通したとして問題になり、その影響か震災後は牛飼いを辞めてしまった所もある。
また、牛舎ごと流され基盤を失い辞めてしまったところ、基盤は流失しながらもその後も他の酪農家に夫婦で働きに行っている方もいる。

〇被災後3週間で集乳ステーションが受け入れ開始。

被災前は毎日だった集乳は経費削減のため現在2日に一回である。そのためバルククーラー(搾った乳を牛乳工場に持って行くまで冷やしておくタンク)を買い替えた。

しかし、季節によって牛乳が多く搾れたりするので2日分の牛乳がバルクに入りきらない時もある。そんな時は集乳に来てもらう。バルククーラーは300万円程度する(※当時)。 震災直後は「搾った牛乳は他人に譲渡・販売してはいけない」という決まりがあったが、避難されている方に自己責任と言うことで提供している時期もあった

今、屠場は乳廃牛(牛乳を搾り終えたおばあちゃん牛)を受け入れが難しい。
肥育した牛を優先に屠場で処理している。(屠場により一日に処理できる頭数は決まっているので限界がある)なので、酪農家から出た乳廃牛は屠場に連れていけず牧場に残ったままになっている。(乳廃牛は搾乳しないか、搾乳をしても他の牛と比べて乳量が少ないため餌代と乳代が釣り合わず儲けが少ないので早く牧場から出したい)。そういった問題を解決するために、そういった屠場に受け入れられていない乳廃牛をどこか一か所に集め飼うという話も進んでいる。

APCAS

記事を読んでいて、酪農を日々継続していくために、ベースとなるインフラ(水、搾乳機械、飼料、集乳など)や人手がいかに必要になるかという事実を改めて感じました。一方で、被災者や被災エリアの復旧、復興が優先され、継続に多くの労力と資金が必要な酪農業への支援は遅れてしまい、再開が難しくなるようなパターンが見られます。事前の災害想定や救援も難しく、対応が難しい問題ですが、支援が届きにくいグループとして、ぜひ知っていただきたい被災地の課題でもあります。